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学習院柔道部の歩み


 
  学習院の柔道の歴史は、講道館の創設と同時期に始まりました。
講道館柔道の創始者・嘉納治五郎師範が政治学・理財学の教師として、明治15年(1882)1月に学習院に奉職。翌16年4月、院内に柔道場が完成し、学校が柔道(当時は世の中では「柔術」と云われていました)を日本で初めて正科(正規の学科)として採用しました。中等科以上の希望者を対象に、師範自ら指導を行なったのであります。
 当時の学習院は華族会館の付属施設(宮内庁所管の官立学校となるのは明治17年4月)として、華族の子弟が学生の大半でした。柔道は名乗りをあげたばかりであり、学校で柔道を始めるにあたって、父兄から「柔術は危険であり、野蛮である」との反対の声が挙がりましたが、初代の立花院長や第2代谷院長の理解と説得があり、これに嘉納師範の熱意が加わり、反対を乗り切って学校における柔道が進められてきました。

 柔道部の創部については、正確な記録が残っていません。同好の学生が集まって活動する今日の「部活動・クラブ活動」としてのスポーツと異なり、武道の正科として柔道、剣道、馬術、游泳術を学んでいた学生のグループを各々「○○部」と称し始めました。そして、明治31年の「輔仁会雑誌」に、初めて「柔道部」の名称が使用され記述されています。
 学校は、明治21年(1888年)9月「柔道修業生徒規則」を定め、毎日放課後に同好の学生によって稽古が行なわれていましたが、同38年(1905年)10月14日に新たに「柔道科規則」が制定され、「満10年以上の学生の志願者、毎日放課後施行、毎年1回大会を施行」などと改められました。
同41年(1908年)10月に至り「柔道科規則」を改正し、「中等科3年及び4年の一部には武課正科として毎週1回課す」こととなりました。
 その後、大正3年(1914年)5月27日に「学習院剣柔道馬術規則」となり、「中等学科以上の志願の学生に授く」となりました。同8年(1919年)11月1日に同規則を「学習院正科時間外武課規則」と改め、同11年(1922年)10月2日一部改正により、初めて「剣道、柔道、弓術、馬術を各々部と称す」と正式に定められました。「輔仁会」所属の「部」となるのは、昭和18年(1943年)2月11日になります。
 明治時代の大会は院内の勝抜勝負(第一紅白勝負)や他各校の派遣選手との3本勝負の組み合わせが20〜30組の他、必ず「形」の演武と5人掛、7人掛があり、第二紅白勝負として、他校との勝抜勝負が行われるのが通 常でした。
 最初の対外試合は、明治24年(1891年)の第一高等中学校柔道大会への出場でした。以後、講道館や北辰館などの選手と試合をしてきましたが、学習院では他校より早く柔道が行なわれていたため、大半の選手が勝利する圧倒的な強さを誇っていました。
いずれにしても、当時は武道の正科として柔道大会が学校行事で開催され、院内学生同士の試合のほか、他校学生との対外試合が行われており、今日の部活動の趣とは異なっていたのであります。

 学校柔道の展開は、明治18年前後の警視庁武術大会における柔術各流派との勝負に講道館が勝ち、明治21年にほぼ「日本伝講道館柔道」が確立したことから、急速に全国に広がっていきました。
例えば「慶応義塾」は明治9年から「柔術」を学校として始めており、同幼稚舎(中学課程)の初代舎長和田義郎は旧紀州藩士で関口流の達人であったことから、福沢諭吉の旨を受けて塾生に柔術を教えていました。明治20年になると、講道館に入門していた塾生が中心となり、講道館柔道を採り入れ、「柔術」から「柔道」へ移っていったのです。
 この時代の本院は、講道館、北辰館、第一高等中学校(後の第一高等学校)、明治義会尋常中学、独逸協会学校、東京専門学校(後の早稲田大学)、攻玉社、東京尋常中学、高等師範附属中学等の選手と各校主催の柔道大会で勝負(当時は個人勝負で、学校同士の勝ち抜き戦は明治30年代になってから)を行なっています。
前述のとおり、本院は早くから柔道を採り入れていたことから、明治26年(1893年)11月11日本院で開催された「柔道会(大会と云う名称は後年)」では、嘉納師範他有名な柔道家から「本院の学生の柔道は強しと云わんよりも、むしろ美妙壮快というべきなり」との評を得、勝負も好結果 を得ていました。
 初期の勝負は、個人の「三本勝負」を数十組行なうことが多く、勝負の時間も長く、昼に始まり夜となり、蠟燭の灯りの中で戦を展開したことが記録されています。
 団体の勝負は、明治28年(1895年)11月9日本院正堂で開催した大会が最初で、本院対「講道館及び高師附属中学、明治義会等の連合軍」が、第二紅白勝負として勝ち抜き戦を行い、本院が勝利を得ています。
 その後、明治から大正、昭和へと時代は移り、高等師範附属中学との定期戦を始め、各校との対抗勝負(試合)が盛んになっていきました。

 昭和16年(1941年)12月8日に太平洋戦争が始まり、昭和17年(1942年)には、高等科は修業年限短縮により、繰り上げ卒業(9月)、更に同18年(1943年)学徒出陣や勤労動員へと続いていきましたが、この戦争で柔道部の先輩達も「目白ヶ丘の桜と咲かん」を合言葉に出陣し、帰ってこられなかった方々もおられました。
 昭和20年(1945年)8月15日終戦となり、同年11月6日文部次官通牒(発体80号)が「武道の授業禁止、正課外の学校内における部活動禁止、道場は他の目的に変更」と通 達され、本院においても、62年間の歴史を有する柔道部が「廃部」という形で消えていくこととなりました。(昭和20年11月までは、旧制高等科、中等科柔道部)

 戦後、昭和25年(1950年)9月13日、GHQ(連合国軍総司令部)は、スポーツとして学校柔道復活を許可し、学校の柔道が復活。本院も昭和27年(1952年)に新制高等科が「柔道同好会」、大学(昭和24年4月に旧制高等科から新制大学を開設)が「体育研究会柔道部」を結成し、目白警察の道場を借りて稽古を開始しました。この後、学校側から放課後のみ使用するとの条件付きで教室(旧剣道場)の使用許可が下り、OBや父母の援助を受けて畳15畳を購入し院内で稽古ができるようになりました。
 戦後の復興途上であり、経済状態が厳しい時代に多くの先輩や父母のご援助ご協力により更に30畳を購入し、教室で授業終了後畳の上げ下ろしをして稽古できるようになったのが、柔道部の本格的復活のルーツになっています。
 さらに、昭和29年(1954年)に高等科、翌30年(1955年)に大学がそれぞれ「部」に昇格し、新制中等科にも昭和40年(1965年)に「柔道同好会」が発足、同42年(1967年)に「部」に昇格し、それぞれ今日に至っております。
 学校の体育の正科目としては、大学が昭和32年(1957年)4月、高等科が30年(1955年)4月、中等科が同41年(1966年)4月から各々再開されました。

 学習院柔道は、明治の黎明期から現在まで、幾多の隆盛期、衰退期を経てきました。
戦後復活期は伊藤鐵五郎名誉師範(旧姓山澤、明治43年旧制高等科卒、八段)や老松信一七段、平田政藏六段の両師範を中心に数多くの柔道関係者のご指導ご協力を頂き復活の基礎が固まりました。
 昭和36年から40年にかけて、戦後最初の隆盛期というべき時代を迎え、昭和38年(1963年)第4回東京選抜学生柔道第二部優勝大会で準優勝、同39年(1964年)の第5回大会では初優勝を飾り、翌40年(1965年)の第6回大会でも3位 と好成績を収めました。
また、四大学柔道優勝大会(本院、成蹊、成城、武蔵の4大学)では昭和29年の第1回から7連覇、その後昭和37年から4連覇があり、昭和53年から5連覇を達成しました。その時の原動力の一人である小堀正次弐段(当時)は、昭和56年4月の第20回東京学生柔道体重別選手権大会65Kg以下級でベストエイト入りを果たし、全国大会出場の栄を得ました。
 平成時代となり、榎義治六段(国士舘大学出、段位は当時)を師範に、坂下誠五段(筑波大学出、段位は当時)を高等科教諭に迎え、その好指導に地力をつけはじめ、OBの熱心な応援指導もあって相乗効果を生み、平成3年から四大学柔道優勝大会11連覇を達成しました。
 平成14年からは実力ある年代層が卒業した反動で急速に弱体化しましたが、昨年(平成20年)は実力ある有段者が数多く入部し、四大学新人戦及び四大学柔道優勝大会のいずれも優勝し、今年(平成21年)も四大学柔道優勝大会二連覇(通算34回優勝)を達成いたしました。



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